宇喜多秀家公潜居跡地

以前、軽く『宇喜多秀家公が関ケ原合戦後、薩摩に落ち延びて来た』という話しを聞いたような・・・。

 

本当だった!

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これを見るだけでワクワクです。

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両脇に民家が並ぶ細い道・・・、いかにもの道・・・。

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段々、らしくなってきた古い石垣、しかも右カーブ!

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徳川の追っ手からなるべく秀家公を守るべく、細く、奥へ、細く・・・。

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この家かっ!と思ったらまだまだ奥へ・・・、

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杉の木の間の道もテンション上がりまくりッス!

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で、最終到着地点が・・・、ココ?

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言われてみれば確かに『潜居・跡地』

2年3か月この地(牛根地区)で暮らし、島津家では宇喜多秀家公の助命を嘆願しましたが受け入れられず、本多正信等を介して罪の軽減を願い出、その結果、徳川家康が「これは島津家の面目をつぶさぬ為に赦す」と言ったとされ、1606年に2人の子供と共に八丈島へ流されたとの事。

中納言五大老の地位まで上り詰めた宇喜多秀家公が関ケ原合戦後に本土最南端の薩摩の地、牛根地区に2年3か月も暮らしていた時の心情は・・・。(この間も残してきた家臣や領民の事を案じておられたそうです)

八丈島に流されても80才くらいまでの長生き!相当、精神力が強い武将だったのでしょう!

チェスト~!